ディレクターだけど、仕事を終わらせたくなかった
日本を代表するゲームクリエイターのひとりであり、前職の任天堂株式会社(以下、任天堂)時代には、伝説の開発第一部に所属。「メイドインワリオ」を始めとする、斬新なコンセプトにもとづいたゲームの生みの親としても知られる松岡洋史。
自らを“遊牧民”と称する、飄々としたたたずまいもさることながら、その長きに渡ってたずさわってきた“ゲーム作り”に対する想いを、これまでのゲームクリエイターとしてのキャリアに沿う形で語ってもらった。
前編:ディレクターだけど、仕事を終わらせたくなかった
後編:絶えず水のように柔軟でいたいんです(笑)
まったくゲームには興味がなかった
—京都の美術大学を卒業後、85年にグラフィックデザイナーとして任天堂に入社されたとうかがっています。そもそもなぜ任天堂に入社を希望されたんでしょう。学生時代からゲームがお好きだったんでしょうか?
松岡: いや、まったくゲームには興味がなかったんですよ(笑)。もともとは車が好きで、高校生の頃からカーデザインがやりたくて美大を受験したのですが、デッサンなどの実技はパスするんですけど、当時の共通一次試験だった筆記がダメで…(苦笑)。勉強が嫌いだったんでしょうね、たまたま滑り止めで受かった京都の美術大学に入学して、そこでデザインを勉強したんです。
任天堂に入社したのも、就職活動の時期を迎えて、大学構内の就職用の掲示板に、たまたま任天堂の募集要項が貼ってあったからなんです。当時は週休二日制の企業は少なく、土曜出勤も当たり前だったんですが、土曜が午後半休で給料もそこそこ普通、場所も京都ということもあって、神戸出身の自分にとっては近くてちょうどいいし、とりあえず受けてみようかなと。
—今と比べるとかなりカジュアルな感じなんですね(笑)
松岡:そうですね。それで、任天堂ってどんな会社なんだろうって調べたら、ゲームを作っている会社だと。だったら自分もゲームを考えたらええんかなと思いました。確か…面接は1回だけだったかな。電話をしたら「明日きて」って言われて。それで、学生時代の4年間で作ったいろんなデッサンやら、コマ撮りアニメの8mmフィルム、あとはその撮影に使った人形やセットなどを、当時乗っていた軽自動車に積み込んで面接に行きました。もうパンパンでしたね(笑)
面接では、それらを机の上にズラ〜ッと並べて、いろいろ喋り倒しました。面接官のひとりには、宮本(茂)さん※注1もいらして。最後は、「キミ、ひとりでそれを運ぶの大変やろ?」ってことで、面接官の方々も一緒に、みんなで自分の車に運んだことを覚えていますね(笑)
※注1 宮本茂(みやもとしげる)
「マリオ」や「ゼルダの伝説」の生みの親として、世界にその名を知られるゲームクリエイター。現在も、任天堂の専務取締役を務めながら、同社のゲーム開発の中核をになう存在として活躍。
—松岡さんの入社当時は、コンシューマーゲーム業界はどのような状況だったのでしょうか?
松岡: 入社2年前の83年の7月に「ファミリーコンピュータ」が発売され、翌84年には「ロードランナー」や「ゼビウス」が発売されて人気を博していました。もともとゲームセンターでしか遊べなかったアーケードゲームを、いわゆるコンシューマー機と呼ばれるファミコンに移植することが盛んになった時期ですね。
—シーン全体としては、いわば成長期に入り始めた頃ですね。
松岡:そうですね。僕が入社した頃は、日本ではすでに下火だった「ゲーム&ウォッチ」シリーズを、海外向けに作っている時期でしたね。しかし、入社した年の85年9月に「スーパーマリオブラザーズ」が発売されて、それが爆発的ヒットを記録したんです。品薄だったり人手不足だったりで、年末のデパートのゲーム売り場に駆り出されたのを、今でもよく覚えていますね(笑)
ゲームとは芸術である
—任天堂に入社後は、「メトロイド」(86年 / FDS=ファミリーコンピュータ ディスクシステム)を始め、「ファミコンウォーズ」(88年 FC=ファミリーコンピュータ)、「スーパーマリオランド」(89年 GB=ゲームボーイ)、「マリオペイント」(92年 SFC=スーパーファミコン)などのデザインを手がけられました。そもそもゲーム制作におけるデザインとは、どのような作業になるのでしょうか?
松岡: 当時は2D(二次元・平面)が基本で、ドッドによるデザインのコンパクトなゲームを作っていました。一口にデザインと言っても、BG(バックグラウンド)とOBJ(オブジェクト)のふたつに分かれていて、マリオで言えば、後ろの背景などがBGであり、マリオなどのキャラクターがOBJ。自分はバックグラウンドである背景を主に手がけていました。「ファミコンウォーズ」のときも、ゲームの背景となる地形を作っていましたね。
ただ、当時は作業が分業化されておらず、たとえば地形をひとつ作るといったときも、地形を含めた背景を考え、そのまま全体のマップなども担当する必要が出てきます。すると、そもそもどういうゲームにするのかといった、いわゆるコンセプト設計にも関わってくるんですね。
いまだったら、ゲーム制作自体が分業化されているけど、当時はデザインとはいっても、絵を描くだけの作業では済まない状況でもあったんです。
—それこそコンテンツ全体に関わるグランドデザインというか、ゲームそのものをデザインするといったイメージなんですね。
松岡: そうですね。「マリオペイント」にしても、パーソナルコンピュータが一般的に普及していなかった状況のなかで、入力デバイスにマウスを取り入れた、アミューズメント系の家庭向け描画ソフトを開発することは、手探り状態での作業でもあった。ただ、すでにその時点で、肩書きとしてはディレクターとデザイナーを兼任していましたね。プランナーあるいはディレクターといった肩書きでも、それぞれの作業領域は曖昧で、僕なんかはもともと好きってこともあって、デザインの画も描いていましたけどね。まさに少人数体制ならではと言いますか、ついやってしまうというか(笑)
—いわゆる従来のグラフィックデザインと、ゲームならではのデザインの相違点はどこにあると思いますか?
松岡:両者のもっとも異なる点は、先ほどお話ししたOBJの存在だと思います。グラフィックデザインは基本的には動かないものですが、ゲームだと、画面のなかでキャラクターなどの物体を動かす必要性が出てくる。もちろんデザイン単体のみで成立するのではなく、BGMやSE(サウンドエフェクト)といった音の存在も大きい。キャラクターを操作するユーザーとのインタラクティブな関係性も重要ですよね。僕の感覚で言えば、ゲームは映画に近いと思います。
—それは、以前から松岡さんがお話になっている、「ゲームとは芸術である」という考えに通じるものでしょうか?
松岡: そうですね。総合芸術としてはゲームも映画も同じだと思っています。ただ、当時のゲームはデータ容量が少なくて、その限られたなかで、グラフィックとサウンドとプログラムのそれぞれを分け合う必要があったので、そこでのせめぎ合いはありましたね。
—具体的に、ゲーム制作におけるディレクターとは、どのような立場で、どのような業務を執り行うものなのでしょうか?
松岡: 簡単に言えば、どんなゲームを作るのかを決めて、各スタッフに随時作業の指示をして、決められた期間内に、自分の思い描いた内容の作品を作り上げる…といったところですね。映画に例えれば監督なんです。最近は、ハードの進化によってソフトの容量も増えるのは必然で、おのずと制作スタッフの数も増加せざるを得ないんですね。スタッフを管理するのもディレクターの仕事なんですが、もともとプログラムなりデザインなりの技術がある人が、リーダーとしてスタッフの管理も行うようになるんです。
よくゲーム制作を希望する若い人たちと話すと、いきなり「自分はディレクターがしたいんです!」って夢を語ったりしますけど、まずはどこかのセクションをイチから経験してからでないと、やっぱりすぐには無理やろとは思いますね(笑)
—学生時代からのルーツでもあるデザイナーという資質は、ディレクションという作業において、どのように作用したと思われますか?
松岡: う〜ん…正直よくわからんかな(笑)。ただアイコンにしてもレイアウトにしても、それらの色使いや配置というものは、結局ゲーム全体に関わってくる要素でもあるんですね。それこそ、こんなデザインのボタンでは画面上で押すことができないとか、そういった様々なことを、デザインの観点から改善指示を出すこともあります。デザイナーとしての知識や経験に基づいたディレクションはしていたと思います。
—そもそもデザインという行為自体が、全体の構造を作ることでもあり、何らかの問題解決のために存在するものですから、おのずとディレクションという作業に繋がってくるのでしょうね。
松岡: 確かに。ただ、ディレクターとしては期限内に終わらせなアカンのに、デザイナーとしてはいつまでも終わらせたくないっていうのも、自分のなかにある思いですね。
—終わらせたくないっていうのは(笑)?
松岡: こだわりだすとキリがないんですよ。“多少時間がかかってもええものを作れ”っていうお達しが下ることもあって、それこそ伝統工芸品を作っているような感覚で制作していることもありました(笑)
自らの直感と縁と運を大事にする
—チーフディレクターを務めた「メイド イン ワリオ」(03年 GBA=ゲームボーイアドバンス)を最後に、任天堂を退社されて、現在のクリーチャーズに入社されますが、その決断の理由は?
松岡: それも直感というか勘なんですよ。わりとB型気質といいますか、もともと遊牧民的な体質なので(笑)
—そこは一貫していますね(笑)
松岡: ちょうど41歳の頃だったかな。ちょっと先が見えちゃったんですね。“このままやったら、いずれこうなっていくよなぁ…”みたいな。それと同時に“もうええかな…”っていう気持ちもあって。
クリーチャーズに入社したのも、勘ですね。東京の会社なので、当時住んでいた京都からはだいぶ離れますけど、好きな東北や北海道に近くなるから旅行にも行きやすいなと思って(笑)。なにより、同じく任天堂に所属していた田中宏和※注2さんが代表取締役社長でもあったし、縁はあったんでしょうね。
※注2 田中宏和(たなかひろかず)
クリーチャーズ代表取締役社長。「MOTHER」シリーズを始めとする数々のゲームミュージックや、アニメ「ポケットモンスター」における多くの楽曲を手がけたことでも知られるコンポーザーでもある。
—今でこそ、ワークシフトや40歳定年説などと言われていますけど、41歳で環境を変えることに不安はありませんでしたか?
松岡: 会社が変わっても、僕がやることは同じですからね、結局。ゲームを作ったり、それにまつわる仕事をやっているわけですから。
ただ4月頃に任天堂を退社して、クリーチャーズに入ったのが10月くらいだったのかな? 半年空いてるんですね。クリーチャーズに入社することが決まってもしばらくは好きな東北を旅行したり、温泉に行ったり、ブラブラ遊んでまして、“いい加減にきてくれ”って言われて、ようやく…(笑)
インタビュー:助川貴
後編へ続きます。
松岡洋史(まつおかひろふみ)
1961年6月25日生まれ。兵庫県神戸市出身。任天堂株式会社の製造本部開発第一部(現・企画開発部)を経て、現在は株式会社クリーチャーズの開発3部クリエイティブデザインチームに所属。任天堂時代に「マリオペイント」「マリオアーティスト」シリーズ、「メイドインワリオ」などを手がける。クリーチャーズにおいては、「のののパズルちゃいリアン」「ポケモンレンジャー バトナージ」のほか、ゲーム以外のコンテンツ制作に多数たずさわる。プライベートでは散歩と水泳が趣味で、2児の父親でもある。